記念館に来る前にその人生について予習していたので、海運業で豪商となった後の
悲しい晩年について頭に入った状態(入館したときから既にどこか悲しい気分)で
どこか複雑な気持ちが入り混じりながら展示コーナーを進んでおります。
苗字は清水さん(屋号が銭屋なんですね)
地名にちなんで苗字を名乗るというのは全国どこでもあったと思いますが、
私が住んでいる千葉県M戸市でも、M戸さんという方をお見掛けすることがあって
地名になじんでつけられらのかな、なんて思ったのと同じですね。
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家系図
銭屋の祖先は越前の戦国大名、朝倉氏の子孫であったと伝えられ、
五兵衛の6代前の吉右衛門の代に移住し金融業を営んだことから銭屋と名乗ったとか。
海の豪商となった五兵衛の家督は長男(喜太郎)が継ぎ、次男(佐八郎)がこれを
助けた、と説明に書いてありました。
銭屋五兵衛で銭五、なんですね
17歳で家業を相続、組合頭に就任し、
39歳で質流れの古船120石積を修理して海運業を始め、
49歳で2ヶ月間に亘る東巡紀行(市熱から日光・江戸見物、東海道)、
53歳で隠居、長男(喜太郎)に家督を譲り、
64歳で隠居所生活に入り(長男へ訓戒を与えたと書いてあった)、
70歳で御手船裁許(藩の公認を得ての海運)を命ぜられ、
73歳で御手船常豊丸を新造(隠居したといいながらも仕事熱心だったぽい)
74歳で永代渡海免許を拝領し、
76歳で御手船常豊丸が能登沖で破船、
79歳で藩から河北埋め立て工事が許可され工事開始、
80歳で河北潟の魚類が変死したため漁業禁止となり、
翌月、五兵衛一族および埋立工事関係者が逮捕、投獄されて、
2か月後に獄舎で死去。。。
最後の表記を見て悲しい気持ちになりました。(:_;)
隠居しても尚藩のために尽力した五兵衛を疎ましく思う勢力に
河北埋め立てが原因で魚が変死したと見せかけて陥れられる、、、
他人の活躍や成功を僻んだり妬んだりする人はいつの世にもいるのだと思うと
(今の時代も程度の差こそあれそういう人って意外といるように思っています)
悪いことをした人には当然ブーメランがかえればよいと思いますが、
悪人たちのせいで命を落とし、一族が没落していった銭屋ファミリーのことを思うと
切ない気持ちになりますね。
と入ったところで家系図と生涯を見ただけで目頭が熱くなったのですが、
幸い、一人で貸切状態で見学していたため、周囲から変な目で見られることなく
穏やかに見学することができました。
他には、
五兵衛さんの家にあった仏壇
実際使われていたものなどの展示を見たら先に進みます。
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日本のように四方が海だと海運業を営む人は多かったのでしょうね。
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北前船で運んでいた荷物の一例で、左から木綿、酒、昆布。
木綿は、北陸で生産された、新川木綿、能美木綿、能登木綿が銭屋の主な取扱い商品で、
酒については、灘、西宮、伊丹で酒造りが活発で需要も高まったことから、銭屋でも
一時期酒造を試みていたとか。
昆布については江戸時代の調理技術の発達によって調味料や食材として特に上方での
需要が高く重宝されたため、北前船の重要な交易品のひとつだったそうです。
ヒバも大事な取扱い商品だったそうです。
桑の葉と北前船について
江戸時代(18世紀)、農民は自給肥料に加えて、魚粕や油粕の金肥(購入肥料)を
積極的に取り入れるようになり、日本各地で季候・風土に合わせた商品作物として、
特に、綿・麻(衣料原料)・桑(養蚕用)・アブラナ(燈油)・紅花・茶・みかん等の
栽培が盛んになっていく中、窒素・リン・マグネシウムを土に投入することで、
土地が肥えることをしった農民が自給できない肥料を鰯とニシンの海産物に求め、
鰯は弁財船で千葉から、ニシンは北前船で北海道から乾燥した肥料として全国に運ばれ、
綿・絹の需要が高まりこれらの売買が農業に大きな役割を果たしたうです。
金肥を買う資金を産み、これが江戸時代の貨幣経済の流通を盛んにさせたと
説明に書いてありました。
要は、海運問屋によって運ばれた肥料を全国の農民が買い、作物を作り、
商品として全国に運ばれていったという循環が出来たということですね。(^-^)-87b55.jpeg)
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続いて銭屋の海運業(商い)についての説明がありました。
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銚子も!
銚子では醤油や鰯(肥料ですね)を
同じ千葉県の小湊では塩を運んでいたのですね。(親近感が増しました)
取扱い商品も多岐にわたっています
兵庫、大阪ではお酒ですね(^-^)
北前船の収益は、船頭による「買積み」の商才にかかっていて、
安値で各地の特産物を買い付けて、高値で売れる港で売りさばくという
北前船独特の商いである「買積み」が非常に大事だったそうです。
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銭屋の本店と支店(信用取引や情報交換による全国のネットワーク)を使って
本店を中心に青森、大阪、京都、江戸の商人と頻繁に価格や景気、
農作物の作況に関する情報を手紙でやりとりし、相互の代金決済を為替で行い、
必要であれば便船で決済金の輸送も行っていたそうです。
今のように振込などがない時期に信用関係を築いて遠方と商売するというのは
やはり商才に長けていないと無理でしょうね。
上右の青森と北海道のやりとりでは、青森に駐在員を置いて支店業務を行い、
材木、米、大豆、昆布などを取引していたという説明でした。
江戸時代にこんなに活発に交易がおこなわれていたことを知って驚いたのですが、
北前船と聞いたことがあってもここまで知らない自分が鈍いのかもしれませんね。(笑)
この後は、北前船の模型の展示コーナーに進みます。
(つづく)
悲しい晩年について頭に入った状態(入館したときから既にどこか悲しい気分)で
どこか複雑な気持ちが入り混じりながら展示コーナーを進んでおります。
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地名にちなんで苗字を名乗るというのは全国どこでもあったと思いますが、
私が住んでいる千葉県M戸市でも、M戸さんという方をお見掛けすることがあって
地名になじんでつけられらのかな、なんて思ったのと同じですね。
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銭屋の祖先は越前の戦国大名、朝倉氏の子孫であったと伝えられ、
五兵衛の6代前の吉右衛門の代に移住し金融業を営んだことから銭屋と名乗ったとか。
海の豪商となった五兵衛の家督は長男(喜太郎)が継ぎ、次男(佐八郎)がこれを
助けた、と説明に書いてありました。
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17歳で家業を相続、組合頭に就任し、
39歳で質流れの古船120石積を修理して海運業を始め、
49歳で2ヶ月間に亘る東巡紀行(市熱から日光・江戸見物、東海道)、
53歳で隠居、長男(喜太郎)に家督を譲り、
64歳で隠居所生活に入り(長男へ訓戒を与えたと書いてあった)、
70歳で御手船裁許(藩の公認を得ての海運)を命ぜられ、
73歳で御手船常豊丸を新造(隠居したといいながらも仕事熱心だったぽい)
74歳で永代渡海免許を拝領し、
76歳で御手船常豊丸が能登沖で破船、
79歳で藩から河北埋め立て工事が許可され工事開始、
80歳で河北潟の魚類が変死したため漁業禁止となり、
翌月、五兵衛一族および埋立工事関係者が逮捕、投獄されて、
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最後の表記を見て悲しい気持ちになりました。(:_;)
隠居しても尚藩のために尽力した五兵衛を疎ましく思う勢力に
河北埋め立てが原因で魚が変死したと見せかけて陥れられる、、、
他人の活躍や成功を僻んだり妬んだりする人はいつの世にもいるのだと思うと
(今の時代も程度の差こそあれそういう人って意外といるように思っています)
悪いことをした人には当然ブーメランがかえればよいと思いますが、
悪人たちのせいで命を落とし、一族が没落していった銭屋ファミリーのことを思うと
切ない気持ちになりますね。
と入ったところで家系図と生涯を見ただけで目頭が熱くなったのですが、
幸い、一人で貸切状態で見学していたため、周囲から変な目で見られることなく
穏やかに見学することができました。
他には、
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実際使われていたものなどの展示を見たら先に進みます。
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北前船で運んでいた荷物の一例で、左から木綿、酒、昆布。
木綿は、北陸で生産された、新川木綿、能美木綿、能登木綿が銭屋の主な取扱い商品で、
酒については、灘、西宮、伊丹で酒造りが活発で需要も高まったことから、銭屋でも
一時期酒造を試みていたとか。
昆布については江戸時代の調理技術の発達によって調味料や食材として特に上方での
需要が高く重宝されたため、北前船の重要な交易品のひとつだったそうです。
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江戸時代(18世紀)、農民は自給肥料に加えて、魚粕や油粕の金肥(購入肥料)を
積極的に取り入れるようになり、日本各地で季候・風土に合わせた商品作物として、
特に、綿・麻(衣料原料)・桑(養蚕用)・アブラナ(燈油)・紅花・茶・みかん等の
栽培が盛んになっていく中、窒素・リン・マグネシウムを土に投入することで、
土地が肥えることをしった農民が自給できない肥料を鰯とニシンの海産物に求め、
鰯は弁財船で千葉から、ニシンは北前船で北海道から乾燥した肥料として全国に運ばれ、
綿・絹の需要が高まりこれらの売買が農業に大きな役割を果たしたうです。
金肥を買う資金を産み、これが江戸時代の貨幣経済の流通を盛んにさせたと
説明に書いてありました。
要は、海運問屋によって運ばれた肥料を全国の農民が買い、作物を作り、
商品として全国に運ばれていったという循環が出来たということですね。(^-^)
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続いて銭屋の海運業(商い)についての説明がありました。
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同じ千葉県の小湊では塩を運んでいたのですね。(親近感が増しました)
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北前船の収益は、船頭による「買積み」の商才にかかっていて、
安値で各地の特産物を買い付けて、高値で売れる港で売りさばくという
北前船独特の商いである「買積み」が非常に大事だったそうです。
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本店を中心に青森、大阪、京都、江戸の商人と頻繁に価格や景気、
農作物の作況に関する情報を手紙でやりとりし、相互の代金決済を為替で行い、
必要であれば便船で決済金の輸送も行っていたそうです。
今のように振込などがない時期に信用関係を築いて遠方と商売するというのは
やはり商才に長けていないと無理でしょうね。
上右の青森と北海道のやりとりでは、青森に駐在員を置いて支店業務を行い、
材木、米、大豆、昆布などを取引していたという説明でした。
江戸時代にこんなに活発に交易がおこなわれていたことを知って驚いたのですが、
北前船と聞いたことがあってもここまで知らない自分が鈍いのかもしれませんね。(笑)
この後は、北前船の模型の展示コーナーに進みます。
(つづく)
この記事へのコメント
溺愛猫的女人
夏炉冬扇
事実はそうだと思います。言い過ぎましたが。
うつぼ
大人になってから教科書で習っていない人を見ると調べておぉ、と思うことが
あるのですが今回は大野弁吉さんんもこの銭屋五兵衛産も目から鱗でした。
こういう人のお陰で貿易が発達していったのでしょうね。
うつぼ
歴史に残っているのはよいことだと思いますが、歴史に残らず世を去った方は
多いのかもしれませんね。
五兵衛さんは昭和になってからこうやって偉人として取り上げたのかな、
なんて思いました。