銭屋五兵衛さんについては今回知ったお方なのですが、地域貢献もされたのに
悲しい晩年だったというイメージがずっとついて回ったままの状態で見学していると、
錢五さんの伝説
食いつきたくなるタイトルですね。もちろん食いつきました、私。
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①天保3年(1832年)4月、五兵衛は2300石積の太平丸に、
米、麦、大豆、小豆、砂糖、酒、醤油などを満載し、水夫12人を率いて出航。
②5月7日、出羽の港に寄港し、更にエトロフに向かって航海中、暴風に遭う。
③太平洋を漂流すること130日余りの後、サンフランシスコの西方5里(約20㌔m)の
ブレイタンの地に漂着。
一行のうち6名が亡くなり、五兵衛と6人の水夫は米国人に救われる。
ブレイタンがどの辺りかと思ってGoogleマップで調べてみたのですがよくわからず
とはいえ、アメリカまで漂流してしまったことにビックリです。
と思ったら隣にこんな表記が。
銭屋五兵衛の海外貿易については諸説紛々、中には全く現実味のない説もあり、
謎に包まれている。
しかし、五兵衛の巨万の富は並みの商売では不可能であり、当然密貿易も推測される。
加賀藩では多額の御用金を納めることを条件に、五兵衛の密貿易を黙認していたとも
いわれており、それが後々幕府の知るところとなり、藩では河北潟埋め立ての事件を
利用して五兵衛を抹殺したのだと言われている。
このように海外貿易は一概には否定できないので「錢五の伝説」として諸説を紹介。
えー、そういうことなのー。(^-^;
これを読むと商才があるのは当然ながらかなり人間くさいイメージも湧きました。
(お主も悪よのぉ、、的なイメージ(笑))
とはいえ、成功を妬む人、出る杭は打たれてしまうのか、というのは残念ですね。
そんな錢五さんの伝説の続きです。
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④先見の眼を持った五兵衛は早くも彼の地の製造事業を視察。
欧米通商の実状を見て学び、大きな影響を受けた。
⑤数か月滞在した後、米国の便船を乗り継いで、その年の11月に伊豆の下田に帰港。
⑥翌年(天保4年(1833年)5月、五兵衛は再び太平丸に乗り、
提灯、傘、竹杖、赤合羽、扇子、団扇などを積み込み、三宅島へ行くと称して出航。
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⑦太平洋を横断してブレイタンに到着し、
サンフランシスコの豪商、フレンチ・アンクスと再会、貿易をおこなった。
⑧五兵衛が帰国する際、フレンチ・アンクスは日本の開国を勧めたが、
五兵衛は祖国の国情を告げ、「願わくは20年後を待たれよ」と言い、
当時26歳であった使用人(他三郎)をフレンチ・アンクスに託し、帰国。
⑨名をフレデルストンと改めた他三郎は、弘化2年(1845年)、米国使節が雑賀に
来航した際、フレンチ・アンクスに従って帰国した。
確かに伝説ぽい。
北陸から青森を通って太平洋側に出て漂流して西海岸に漂着するのもびっくりですが、
しばらく滞在している間、五兵衛さんのご家族は心配していなかったのかという疑問が
どうしても湧いてしまいました。
海外で見聞を広めようとするのは真面目だけで野心もあったのだろうと思いつつ、
三宅島に行くと言って再びアメリカ西海岸に行って、使用人を置いてきてしまう、
まあ、自分が残るわけにはいかないのでしょうが、今の時代だったら、この人の下で
働いてどうなんだろう(使用人の他三郎、偉い)そんな気持ちになりました。(^-^;
と、事実かどうかはわからない伝説にツッコミを入れた後は、
北前船
1500石積級の常豊丸の実物の四分の一のサイズ。
展示でもかなり大きかったので実際は本当に大きかったのでしょうね。
海外貿易”説”として上述したアメリカだけでなく、樺太、ロシア、南はタスマニア島、
広域に移動し貿易していたという説もあるそうですが、本当だったら物凄い商才と
行動力だなあと思いました。
船の重さで吃水線も変わりますよね
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モーターがない時代、大きな船で長距離移動というのは重労働だったでしょうね。
と、五兵衛さんについて悲しさよりも何だかツッコミ始めたところで、
シアターがあったので
どうやったら動画が始まるんだろう、スクリーンに近づいてうろうろしていたら、
スタッフの方が「ご覧になりますか?今スタートさせますね」と操作してくれて、
五兵衛さんの物語スタート
貸切なので無問題です
アニメになると再び悲しい晩年の五兵衛さんのことが気の毒になったりして、
錢五の伝説で違う方向に振れかけた自分の気持ちが戻っておりました。。。。
1人でかなりゆったりと見学していたのでこのあたりまでで1時間半くらい、
残りあとちょっとだけ展示があるので見学したら金沢駅方面に戻ります。
(つづく)
悲しい晩年だったというイメージがずっとついて回ったままの状態で見学していると、
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食いつきたくなるタイトルですね。もちろん食いつきました、私。
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①天保3年(1832年)4月、五兵衛は2300石積の太平丸に、
米、麦、大豆、小豆、砂糖、酒、醤油などを満載し、水夫12人を率いて出航。
②5月7日、出羽の港に寄港し、更にエトロフに向かって航海中、暴風に遭う。
③太平洋を漂流すること130日余りの後、サンフランシスコの西方5里(約20㌔m)の
ブレイタンの地に漂着。
一行のうち6名が亡くなり、五兵衛と6人の水夫は米国人に救われる。
ブレイタンがどの辺りかと思ってGoogleマップで調べてみたのですがよくわからず
とはいえ、アメリカまで漂流してしまったことにビックリです。
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銭屋五兵衛の海外貿易については諸説紛々、中には全く現実味のない説もあり、
謎に包まれている。
しかし、五兵衛の巨万の富は並みの商売では不可能であり、当然密貿易も推測される。
加賀藩では多額の御用金を納めることを条件に、五兵衛の密貿易を黙認していたとも
いわれており、それが後々幕府の知るところとなり、藩では河北潟埋め立ての事件を
利用して五兵衛を抹殺したのだと言われている。
このように海外貿易は一概には否定できないので「錢五の伝説」として諸説を紹介。
えー、そういうことなのー。(^-^;
これを読むと商才があるのは当然ながらかなり人間くさいイメージも湧きました。
(お主も悪よのぉ、、的なイメージ(笑))
とはいえ、成功を妬む人、出る杭は打たれてしまうのか、というのは残念ですね。
そんな錢五さんの伝説の続きです。
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④先見の眼を持った五兵衛は早くも彼の地の製造事業を視察。
欧米通商の実状を見て学び、大きな影響を受けた。
⑤数か月滞在した後、米国の便船を乗り継いで、その年の11月に伊豆の下田に帰港。
⑥翌年(天保4年(1833年)5月、五兵衛は再び太平丸に乗り、
提灯、傘、竹杖、赤合羽、扇子、団扇などを積み込み、三宅島へ行くと称して出航。
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⑦太平洋を横断してブレイタンに到着し、
サンフランシスコの豪商、フレンチ・アンクスと再会、貿易をおこなった。
⑧五兵衛が帰国する際、フレンチ・アンクスは日本の開国を勧めたが、
五兵衛は祖国の国情を告げ、「願わくは20年後を待たれよ」と言い、
当時26歳であった使用人(他三郎)をフレンチ・アンクスに託し、帰国。
⑨名をフレデルストンと改めた他三郎は、弘化2年(1845年)、米国使節が雑賀に
来航した際、フレンチ・アンクスに従って帰国した。
確かに伝説ぽい。
北陸から青森を通って太平洋側に出て漂流して西海岸に漂着するのもびっくりですが、
しばらく滞在している間、五兵衛さんのご家族は心配していなかったのかという疑問が
どうしても湧いてしまいました。
海外で見聞を広めようとするのは真面目だけで野心もあったのだろうと思いつつ、
三宅島に行くと言って再びアメリカ西海岸に行って、使用人を置いてきてしまう、
まあ、自分が残るわけにはいかないのでしょうが、今の時代だったら、この人の下で
働いてどうなんだろう(使用人の他三郎、偉い)そんな気持ちになりました。(^-^;
と、事実かどうかはわからない伝説にツッコミを入れた後は、
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1500石積級の常豊丸の実物の四分の一のサイズ。
展示でもかなり大きかったので実際は本当に大きかったのでしょうね。
海外貿易”説”として上述したアメリカだけでなく、樺太、ロシア、南はタスマニア島、
広域に移動し貿易していたという説もあるそうですが、本当だったら物凄い商才と
行動力だなあと思いました。
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モーターがない時代、大きな船で長距離移動というのは重労働だったでしょうね。
と、五兵衛さんについて悲しさよりも何だかツッコミ始めたところで、
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どうやったら動画が始まるんだろう、スクリーンに近づいてうろうろしていたら、
スタッフの方が「ご覧になりますか?今スタートさせますね」と操作してくれて、
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アニメになると再び悲しい晩年の五兵衛さんのことが気の毒になったりして、
錢五の伝説で違う方向に振れかけた自分の気持ちが戻っておりました。。。。
1人でかなりゆったりと見学していたのでこのあたりまでで1時間半くらい、
残りあとちょっとだけ展示があるので見学したら金沢駅方面に戻ります。
(つづく)
この記事へのコメント
lovin
伝説になる人ってやっぱりそのくらいすごいってことですよね~~。
溺愛猫的女人
うつぼ
伝説といって盛りっぱなしでない展示でホッとしました。(笑)
確かに尾ひれがつくくらいの人だったのかもしれませんね。
うつぼ
伝説の真偽のほどはどうなんだろう、、、ですが、
三宅島といってアメリカにいくという意気込みは凄いですね。
ついていく水夫さんたちは大変そうですが。(^-^;
夏炉冬扇
政商だったんですね。
うつぼ
太平洋を越えてアメリカに行ってしまうなんて(◎_◎;)と思いましたが
こういう話、面白いなあと思いました。