午前中に観た大野弁吉さん(からくり)よりも人間臭さが前面に漂う展示に
会ったことがないものの(時代が違うから当たり前なのですが)
変に親近感が湧いた銭屋五兵衛さんの展示、あとちょっと続きます。
海運業の他にも偉業あり
河北潟の埋め立てでは、4500石(15000㎥くらい)の新田開発を行ったそうですが、
工事が意外と難航し、湖水に金銀を投げすてるようなものと五兵衛自身が後悔しつつ、
辛抱すれば自ずと藩と領民の利益になるだろうと、出資に反対した息子や手代たちを
説得したそうですが、この埋め立てによって、魚が死んだと無実の罪をきせられ、
(反対勢力によって罠にはめられてしまったということですね)
投獄されそして獄舎でお亡くなりになったというのも、その後も引き続き新田造成が
行われていたことからも五兵衛産の判断は間違っていなかったのだと思います。
その他、宮腰湊(五兵衛さんの北前船の拠点)の賑わい。
五兵衛さんの成功によってこの港を使って材木積船で港で働く人が増えて賑わったそうで、
埋め立てで五兵衛さんが無罪の罪をきせられた時、宮腰町奉行が銭屋没落後に材木入荷の
確保策を町役人に確認していたという表記に成功者を妬む悪人どもの悪だくみ、
イラついてしまいました。(V)o¥o(V)
また、殖産興業として加賀特産の菅笠や小松のござ、砺波の川上布、福光の曽代糸、
白山麓の牛首紬などが五兵衛さんの船で全国に運ばれ、地元の繊維産業や特産物の生産が
銭屋の販路拡大によって活性化したそうですね。
それなのに獄舎で亡くなるなんて。。。(:_;)
その後の銭屋ファミリーについて
1852年11月、五兵衛さんが獄舎で亡くなった翌月、一番番頭の次郎兵衛さんが牢死、
同じ月に判決が出て三男(要蔵)と手代(市兵衛)の磔の刑執行、
1854年7月、五兵衛の妻(まき)が亡くなると、没収された銭屋の家財・蔵荷物が競売され、
1857年10月、五兵衛の孫(長男喜太郎の長女 千賀)が代牢願を提出すると、
2ヶ月後に長男喜太郎が永牢の罪を許され出牢、
1859年12月、銭屋の家名再興を嘆願(その後も何度も嘆願)、
1864年4月、喜太郎が嫡子(余計松)に家督を譲り、翌月籠の中で自害、
余計松は余三郎を名乗るが家名断絶の処罰を受けていたため清水屋を名乗り、
1866年11月、500石積船を購入するが、
1881年、宮腰の店を閉じ、青森に移転。
反対勢力によって無実の罪を着せられることがなかったら銭屋さんの祖先は
今でも金沢で商売なさっていたかもしれませんが、ドラマチックな展開ですね。
(追記)
夏炉冬扇さんからどうやって名誉回復したのだろうというコメントを頂戴し、
確かにどうやって名誉回復したのだろうと調べてみて以下のような記事を見つけました。
https://ike-katsu.blogspot.com/2016/06/blog-post_14.html
徳川政府が墨守した鎖国体制の犠牲者として慰霊され(⇐錢五の伝説関連ですね)
検証され、密貿易が暴露されるのを恐れた政府によって厳罰を受けたとして、
海外貿易の先駆者として名誉回復、現在に至るのかもしれませんね。
と、結局のところ、五兵衛さんに対しては悲しい気持ちになって展示コーナー見学終了。
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重さ当て
千両箱をちょっと持ってみたらかなり重かったので
「うん、わからない」と早々に回答を諦めました。
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和傘と水引の展示をさらっと見た後、
銭屋の茶室を見たら外に出て
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曇天なので庭園散策は諦めて、
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記念館のすぐ近くにあった五兵衛さんの家(移築)を見学しました。
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筑200年
2階のお部屋から見える庭園
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スタッフの方にお手入れ大変そうですね、と話しかけると、
築200年ですから結構大変です、、と仰っていました。
と、金沢ゆかりの大野弁吉さんに続き、銭屋五兵衛さんについても知ることが出来て
(五兵衛さん、弁吉さんを資金サポートしていたらしいです)
こんな悪天候でも満足、と思いながら、バスで金沢駅方面に移動します。
(つづく)
会ったことがないものの(時代が違うから当たり前なのですが)
変に親近感が湧いた銭屋五兵衛さんの展示、あとちょっと続きます。
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河北潟の埋め立てでは、4500石(15000㎥くらい)の新田開発を行ったそうですが、
工事が意外と難航し、湖水に金銀を投げすてるようなものと五兵衛自身が後悔しつつ、
辛抱すれば自ずと藩と領民の利益になるだろうと、出資に反対した息子や手代たちを
説得したそうですが、この埋め立てによって、魚が死んだと無実の罪をきせられ、
(反対勢力によって罠にはめられてしまったということですね)
投獄されそして獄舎でお亡くなりになったというのも、その後も引き続き新田造成が
行われていたことからも五兵衛産の判断は間違っていなかったのだと思います。
その他、宮腰湊(五兵衛さんの北前船の拠点)の賑わい。
五兵衛さんの成功によってこの港を使って材木積船で港で働く人が増えて賑わったそうで、
埋め立てで五兵衛さんが無罪の罪をきせられた時、宮腰町奉行が銭屋没落後に材木入荷の
確保策を町役人に確認していたという表記に成功者を妬む悪人どもの悪だくみ、
イラついてしまいました。(V)o¥o(V)
また、殖産興業として加賀特産の菅笠や小松のござ、砺波の川上布、福光の曽代糸、
白山麓の牛首紬などが五兵衛さんの船で全国に運ばれ、地元の繊維産業や特産物の生産が
銭屋の販路拡大によって活性化したそうですね。
それなのに獄舎で亡くなるなんて。。。(:_;)
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1852年11月、五兵衛さんが獄舎で亡くなった翌月、一番番頭の次郎兵衛さんが牢死、
同じ月に判決が出て三男(要蔵)と手代(市兵衛)の磔の刑執行、
1854年7月、五兵衛の妻(まき)が亡くなると、没収された銭屋の家財・蔵荷物が競売され、
1857年10月、五兵衛の孫(長男喜太郎の長女 千賀)が代牢願を提出すると、
2ヶ月後に長男喜太郎が永牢の罪を許され出牢、
1859年12月、銭屋の家名再興を嘆願(その後も何度も嘆願)、
1864年4月、喜太郎が嫡子(余計松)に家督を譲り、翌月籠の中で自害、
余計松は余三郎を名乗るが家名断絶の処罰を受けていたため清水屋を名乗り、
1866年11月、500石積船を購入するが、
1881年、宮腰の店を閉じ、青森に移転。
反対勢力によって無実の罪を着せられることがなかったら銭屋さんの祖先は
今でも金沢で商売なさっていたかもしれませんが、ドラマチックな展開ですね。
(追記)
夏炉冬扇さんからどうやって名誉回復したのだろうというコメントを頂戴し、
確かにどうやって名誉回復したのだろうと調べてみて以下のような記事を見つけました。
https://ike-katsu.blogspot.com/2016/06/blog-post_14.html
徳川政府が墨守した鎖国体制の犠牲者として慰霊され(⇐錢五の伝説関連ですね)
検証され、密貿易が暴露されるのを恐れた政府によって厳罰を受けたとして、
海外貿易の先駆者として名誉回復、現在に至るのかもしれませんね。
と、結局のところ、五兵衛さんに対しては悲しい気持ちになって展示コーナー見学終了。
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千両箱をちょっと持ってみたらかなり重かったので
「うん、わからない」と早々に回答を諦めました。
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和傘と水引の展示をさらっと見た後、
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曇天なので庭園散策は諦めて、
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記念館のすぐ近くにあった五兵衛さんの家(移築)を見学しました。
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スタッフの方にお手入れ大変そうですね、と話しかけると、
築200年ですから結構大変です、、と仰っていました。
と、金沢ゆかりの大野弁吉さんに続き、銭屋五兵衛さんについても知ることが出来て
(五兵衛さん、弁吉さんを資金サポートしていたらしいです)
こんな悪天候でも満足、と思いながら、バスで金沢駅方面に移動します。
(つづく)
この記事へのコメント
溺愛猫的女人
夏炉冬扇
うつぼ
千両箱、かなりの重さでした。
ちょっと持ち上げて、う、無理、と早々に諦めましたがもうちょっと本気を
出せばよかったかもしれません。(笑)
うつぼ
コメントをいただいてから本文に追記したのですが、明治時代に徳川幕府を
批判する形で名誉回復されたようです。
鎖国の時代に密貿易したことが暴露されないように殺されたのでは、
と言われているとは、幕府の闇、ですね。