萬鉄五郎画伯の絵を観た後にやってきたのは陸前高田市。
高田松原津波復興祈念公園です
東日本大震災については当時ブログでも毎日記事を書いていましたが
今読み返すと不安定な気持ちをなんとか落ち着かせようと書いている感じで
文面も荒れていれば感情も荒れていたなあと読み返して思いました。
(東日本大震災のカテゴリ―を作って書いておりました)https://utsubohan.blog.ss-blog.jp/archive/c2301597847-1
当時、仙台にお住まいのブロガーさん(kotobukimaruさんやwakameさん)の
ご無事にホッとしつつも停電や余震などでご苦労の多い生活を長らく続けられた様子、
大変だったなあと時折思い返します。
今回の東北の旅、けーすけ兄が計画を立ててくれたのですが、震災遺構も訪れよう、
と言ってくれて、この高田松原津波振興祈念公園を初めて訪れることが出来ました。
来ようと思えば関東から来られる距離だったのに来なかった、来られなかった、
今思えば臆病な自分がいるわけですが(ダメですね)きちんと向き合わないと、
そういう気持で私も公園に入りました。
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広々とした景色が見えますが、
20年前(ブログを始める2年前)にこの陸前高田の土地を訪れたことがあります。
千葉から常磐線(スーパーひたち)で仙台まで北上した後、
南気仙沼(シャークミュージアムを訪れ、宿ではまんぼうを食べた)、
陸前高田で海と貝のミュージアムを訪れてから更に北上し釜石でホヤを食べ、
更に北上して田野畑の宿では名物どんこ汁をいただき、久慈経由で八戸まで行って
新幹線で帰ってきた、そういう旅です。
当時も大きな地震が頻発していて南気仙沼では木造の旅館が大揺れした、と、
旅日記(ブログを始める前はWORDにベタ打ちした旅行記を社内希望者に配布)に
書いてあったのですが(自分自身の記憶にも物凄く揺れた記憶は残っています)、
陸前高田を訪れた時の旅行記を探して見つかったので読み返して色々思い出しました。
(当時の日記より)
南気仙沼駅10:53発の三陸1号は遅れて出発、気仙沼駅で大船渡線に乗り継ぎ出来るか、
と不安に思っていたら盛(さかり、と読む)行きの電車は待っていてくれました。
気仙沼駅で乗り換えてから陸前高田駅で下車。
雨降る中タクシーに乗って「海と貝のミュージアムまでお願いします」と言ったつもりが、
「え?B&Gですか?」と聞き返された。土地が変わると意思の疎通方法も変わるのか。
「うみ、と、かい、の、みゅーじあむ、です。 お願いします。」と大きな声で伝え、
何とか到着、入館料500円を支払いついでに荷物を預ってもらう。
夏休みなので、子供だらけ、というかファミリーだらけ。
一人で来ているのは多分うつぼだけ、という雰囲気。
まず地球が出来てから生物がどのように発達していったか、図解で説明するコーナーへ。
海の生物が現れて、次に両生類が地上に上がって進化して恐竜になって、滅びてから
長い時間が経った後に猿が出てきて、 一番最後に人間が出てきた、というわけで、
そんな人間が我が物顔でいいのだろうか、などと考えてしまった。
次はお待ちかねの貝のコーナー。
貝の種類について(二枚貝とか、巻貝とか)、各々、体の構造も違うというのを図解で
見た後は、生態系別の展示。一箇所に固定して生息する貝、浮遊する貝、淡水に住む貝、
砂地に住む貝、また場所柄、三陸に住む貝なども展示してありました。
他に「どんな音が聞こえるかな?」という様々な巻貝を耳に当てて音を聞くコーナーや、
顕微鏡で見る極小(体長0.6㎜)の貝などなど、とにかく貝づくし。
特別展「タカラ貝とイモ貝」も結構面白い。
タカラ貝は、安産に良い、タンスに入れておくとお金が貯まる、と言われる縁起の良い貝。
表面がつるつるしているのも特徴とか。
イモ貝は里芋に似ているところから名前が ついたらしいが、毒もあるので危険とか。
とはいえ、貝殻自体はキレイでサーモンピンク色の「ミカンイモ」が特に印象的でした。
一通り展示を見て1階に下りたところに、水槽による展示。
白いウニと白いホヤ(本当に白い)、三陸に生息する数々の魚、泳ぐオウム貝などなど。
1時間足らずの駆け足見学、もう少し見たいところだが、電車を逃すと2時間来ない、
ので、止む無くタクシーで陸前高田の駅に戻る。
待合室で昼食、朝買ったサンドイッチとおむすびを食べる。
電車に乗る前に駅のトイレに入ったら、懐かしのポットントイレだった。
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東日本大震災については当時ブログでも毎日記事を書いていましたが
今読み返すと不安定な気持ちをなんとか落ち着かせようと書いている感じで
文面も荒れていれば感情も荒れていたなあと読み返して思いました。
(東日本大震災のカテゴリ―を作って書いておりました)https://utsubohan.blog.ss-blog.jp/archive/c2301597847-1
当時、仙台にお住まいのブロガーさん(kotobukimaruさんやwakameさん)の
ご無事にホッとしつつも停電や余震などでご苦労の多い生活を長らく続けられた様子、
大変だったなあと時折思い返します。
今回の東北の旅、けーすけ兄が計画を立ててくれたのですが、震災遺構も訪れよう、
と言ってくれて、この高田松原津波振興祈念公園を初めて訪れることが出来ました。
来ようと思えば関東から来られる距離だったのに来なかった、来られなかった、
今思えば臆病な自分がいるわけですが(ダメですね)きちんと向き合わないと、
そういう気持で私も公園に入りました。
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20年前(ブログを始める2年前)にこの陸前高田の土地を訪れたことがあります。
千葉から常磐線(スーパーひたち)で仙台まで北上した後、
南気仙沼(シャークミュージアムを訪れ、宿ではまんぼうを食べた)、
陸前高田で海と貝のミュージアムを訪れてから更に北上し釜石でホヤを食べ、
更に北上して田野畑の宿では名物どんこ汁をいただき、久慈経由で八戸まで行って
新幹線で帰ってきた、そういう旅です。
当時も大きな地震が頻発していて南気仙沼では木造の旅館が大揺れした、と、
旅日記(ブログを始める前はWORDにベタ打ちした旅行記を社内希望者に配布)に
書いてあったのですが(自分自身の記憶にも物凄く揺れた記憶は残っています)、
陸前高田を訪れた時の旅行記を探して見つかったので読み返して色々思い出しました。
(当時の日記より)
南気仙沼駅10:53発の三陸1号は遅れて出発、気仙沼駅で大船渡線に乗り継ぎ出来るか、
と不安に思っていたら盛(さかり、と読む)行きの電車は待っていてくれました。
気仙沼駅で乗り換えてから陸前高田駅で下車。
雨降る中タクシーに乗って「海と貝のミュージアムまでお願いします」と言ったつもりが、
「え?B&Gですか?」と聞き返された。土地が変わると意思の疎通方法も変わるのか。
「うみ、と、かい、の、みゅーじあむ、です。 お願いします。」と大きな声で伝え、
何とか到着、入館料500円を支払いついでに荷物を預ってもらう。
夏休みなので、子供だらけ、というかファミリーだらけ。
一人で来ているのは多分うつぼだけ、という雰囲気。
まず地球が出来てから生物がどのように発達していったか、図解で説明するコーナーへ。
海の生物が現れて、次に両生類が地上に上がって進化して恐竜になって、滅びてから
長い時間が経った後に猿が出てきて、 一番最後に人間が出てきた、というわけで、
そんな人間が我が物顔でいいのだろうか、などと考えてしまった。
次はお待ちかねの貝のコーナー。
貝の種類について(二枚貝とか、巻貝とか)、各々、体の構造も違うというのを図解で
見た後は、生態系別の展示。一箇所に固定して生息する貝、浮遊する貝、淡水に住む貝、
砂地に住む貝、また場所柄、三陸に住む貝なども展示してありました。
他に「どんな音が聞こえるかな?」という様々な巻貝を耳に当てて音を聞くコーナーや、
顕微鏡で見る極小(体長0.6㎜)の貝などなど、とにかく貝づくし。
特別展「タカラ貝とイモ貝」も結構面白い。
タカラ貝は、安産に良い、タンスに入れておくとお金が貯まる、と言われる縁起の良い貝。
表面がつるつるしているのも特徴とか。
イモ貝は里芋に似ているところから名前が ついたらしいが、毒もあるので危険とか。
とはいえ、貝殻自体はキレイでサーモンピンク色の「ミカンイモ」が特に印象的でした。
一通り展示を見て1階に下りたところに、水槽による展示。
白いウニと白いホヤ(本当に白い)、三陸に生息する数々の魚、泳ぐオウム貝などなど。
1時間足らずの駆け足見学、もう少し見たいところだが、電車を逃すと2時間来ない、
ので、止む無くタクシーで陸前高田の駅に戻る。
待合室で昼食、朝買ったサンドイッチとおむすびを食べる。
電車に乗る前に駅のトイレに入ったら、懐かしのポットントイレだった。
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ミュージアムについて検索したら以下のURLが出てきたのですが、
http://www.web-aquarium.net/aquarium/aq_230.html
あ、見つかったとよく見たら、
※20011年3月、東北関東大震災により閉鎖されています。
(このデータは2009年当時の資料です)
という表記があって、そうだ、震災でこのミュージアム(海に近いところにあった記憶)も
流されてしまったのだ、改めて津波の被害の大きさを感じました。
今回記事を書く際にミュージアムのあった場所を調べてみたら、
今回訪れた祈念公園のすぐ近く、当時の陸前高田駅はもっと内陸にあって、
このミュージアムまで歩くと20分くらいあったためタクシー移動したのですが、
ミュージアムの付近は家もお店もたくさんあって賑やかだった記憶です。
それが今回観た景色は全く異なっていて、震災後、ニュースで陸前高田や気仙沼が
壊滅状態と報じられていてその意味がすぐには理解できなかったのが、
時間の経過とともに復興の様子をテレビで見て少しずつ理解できるようになった、
でも、自分で訪れることがなかったので本当は理解できていなかったのかもしれません。
自分が過去に訪れた場所が今回余りにも違う姿に変わっていたことは大きな衝撃でした。
尚、陸前高田の後に訪れた田野畑の宿「本家旅館」さんについても今回気になって
ネットで調べてみたのですが、ご主人(震災3か月前に他界)が築いた石垣のお陰で
旅館自体は被害を受けなかったものの、眼下に広がる家々は津波でどんどん流され、
女将さんがショックで旅館をお休みされていた(その後再開したものもその後閉業)、
という記事を観て当時の被害と津波の脅威について改めて知りました。
20年前に体験した海沿いの旅、海の穏やかな風景を眺めながら旅しましたが、
その後の震災での津波被害を観て自然の表情がこうも変わるということ、
人々が暮らした土地がこうも変わってしまうこと今回訪れて自分の目で見て感じました。-6561a.jpeg)
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ここに町があったんだなあ
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たくさんのアカツメクサが咲くこの土地にかつて街並みがあったことを
思い浮かべました。
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突き当りを右に進んだところに大きく変形した建物と
奇跡の一本松がありました
変形した建物はかつてユースホステル
現在は震災遺構です
この建物が津波を受けたことから一本松が残ったそうです。
災害時の避難ルートの看板
高くそびえたっています
一本松の保存についての説明
この松だけ大きかったんですね -102db.jpeg)
枯死が確認された一歩松ですが、集まった募金によって処理されて現在保存されています。
コンクリート基礎に立てられた松、幹(特殊な防虫腐食処理を行い芯棒を入れてある)は
実物ですが枝葉部分はレプリカです。
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-31bde.jpeg)
一本松の向こうに見える建物は気仙中学校(震災遺構)です。
入口に戻る途中
アカツメクサに混じって、小さい木がたくさん植えてあるのが見えました。
snorita姐が「ここに住んでいた人達が植えているのかもしれないね」と
言っていたのですが、自分が住んでいた家が奪われ、もうその土地にも住めない、
自分にこのような経験がないので理解しきれていないような気がしていますが
植えられた木が大きく育っていくように津波の被害でこれ以上町が壊されないように
目に入る風景あちこち向けて手を合わせて祈りました。
この後、道の駅の隣にある、東日本大震災津波伝承館に行くと、
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こんなに分厚い鉄板がゆがむほどの力を持つ津波の威力を改めて知りました。
赤い車は私が訪れた田野畑の消防車だそうですが、目を背けずに事実として
受け止めることが大事ですね。
今年天皇皇后両陛下もいらっしゃった公園で式典の様子はテレビで見ましたが、
私もやっとくることができてよかったです。
短時間ですが今の陸前高田を観て手を合わせることができて、行こうといってくれた
けーすけ兄には本当に感謝しています。
この後は昼食をとって、もう一か所、震災遺構を訪ねます。
(つづく)
http://www.web-aquarium.net/aquarium/aq_230.html
あ、見つかったとよく見たら、
※20011年3月、東北関東大震災により閉鎖されています。
(このデータは2009年当時の資料です)
という表記があって、そうだ、震災でこのミュージアム(海に近いところにあった記憶)も
流されてしまったのだ、改めて津波の被害の大きさを感じました。
今回記事を書く際にミュージアムのあった場所を調べてみたら、
今回訪れた祈念公園のすぐ近く、当時の陸前高田駅はもっと内陸にあって、
このミュージアムまで歩くと20分くらいあったためタクシー移動したのですが、
ミュージアムの付近は家もお店もたくさんあって賑やかだった記憶です。
それが今回観た景色は全く異なっていて、震災後、ニュースで陸前高田や気仙沼が
壊滅状態と報じられていてその意味がすぐには理解できなかったのが、
時間の経過とともに復興の様子をテレビで見て少しずつ理解できるようになった、
でも、自分で訪れることがなかったので本当は理解できていなかったのかもしれません。
自分が過去に訪れた場所が今回余りにも違う姿に変わっていたことは大きな衝撃でした。
尚、陸前高田の後に訪れた田野畑の宿「本家旅館」さんについても今回気になって
ネットで調べてみたのですが、ご主人(震災3か月前に他界)が築いた石垣のお陰で
旅館自体は被害を受けなかったものの、眼下に広がる家々は津波でどんどん流され、
女将さんがショックで旅館をお休みされていた(その後再開したものもその後閉業)、
という記事を観て当時の被害と津波の脅威について改めて知りました。
20年前に体験した海沿いの旅、海の穏やかな風景を眺めながら旅しましたが、
その後の震災での津波被害を観て自然の表情がこうも変わるということ、
人々が暮らした土地がこうも変わってしまうこと今回訪れて自分の目で見て感じました。
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たくさんのアカツメクサが咲くこの土地にかつて街並みがあったことを
思い浮かべました。
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突き当りを右に進んだところに大きく変形した建物と
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この建物が津波を受けたことから一本松が残ったそうです。
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枯死が確認された一歩松ですが、集まった募金によって処理されて現在保存されています。
コンクリート基礎に立てられた松、幹(特殊な防虫腐食処理を行い芯棒を入れてある)は
実物ですが枝葉部分はレプリカです。
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一本松の向こうに見える建物は気仙中学校(震災遺構)です。
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アカツメクサに混じって、小さい木がたくさん植えてあるのが見えました。
snorita姐が「ここに住んでいた人達が植えているのかもしれないね」と
言っていたのですが、自分が住んでいた家が奪われ、もうその土地にも住めない、
自分にこのような経験がないので理解しきれていないような気がしていますが
植えられた木が大きく育っていくように津波の被害でこれ以上町が壊されないように
目に入る風景あちこち向けて手を合わせて祈りました。
この後、道の駅の隣にある、東日本大震災津波伝承館に行くと、
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こんなに分厚い鉄板がゆがむほどの力を持つ津波の威力を改めて知りました。
赤い車は私が訪れた田野畑の消防車だそうですが、目を背けずに事実として
受け止めることが大事ですね。
今年天皇皇后両陛下もいらっしゃった公園で式典の様子はテレビで見ましたが、
私もやっとくることができてよかったです。
短時間ですが今の陸前高田を観て手を合わせることができて、行こうといってくれた
けーすけ兄には本当に感謝しています。
この後は昼食をとって、もう一か所、震災遺構を訪ねます。
(つづく)
この記事へのコメント
溺愛猫的女人
夏炉冬扇
娘の犬が数珠玉かじってしまいました。
うつぼ
もっと早くいけばよかったと思ったのですが、また訪れて手を合わせたいと
思います。
うつぼ
震災の松で数珠、お持ちなんですね。
犬がかじってしまったのは仕方ありませんが(^-^;
福岡からも思いがつながっていると思うと嬉しいです。